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![]() 木下サーカスでこどもたちの人気者だった四頭のぞうたちは、多くのこどもたちに 見てもらいたいという名古屋の東山動物園の園長さんのたってのたのみで 動物園にゆずり受けることになりました。 昭和12年(1937)その頃日本は中国と戦争をしていました。動物園にはまだ たくさんの動物がいましたが、その中でも一番の人気者はぞうです。ぞうの柵の まわりはいつも人でいっぱいでした。 しかし戦争はやがてアメリカ・イギリスなど世界中の国を相手にだんだんと激しく なり、ぞうが食べるえさのワラさえも燃料になってしまい集めるのも大変でした。 それ以上の難問が動物園にはおきていました。全国の動物園に「猛獣を処分せよ」と いう命令が出されていたのです。そして、処分する猛獣の中にはぞうも含まれていました。 東京の上野動物園では、ぞうのトンキー、花子、ジョンが殺されました。 猛獣を処分せよという再三の命令を断り続けてきた東山動物園でも、ついに……。 戦争中、たくさんの動物が殺されました。そして20頭いたぞうも殺され、残ったのは 名古屋の東山動物園にいる2頭だけでした。そして戦争が終わった後、2頭のぞう、 マ力二一とエルドに会いたいというこどもたちの熱い願いが大人たちの心を動かし、 東京をはじめとして全国各地から子ども達をこの動物園まで運ぶ特別仕立ての 「ぞうれっしゃ」が走ることになったのです。 |
![]() 動物園にはたくさんの動物がいます。しかし、そうでない時代がありました。 あの太平洋戦争の時代です。人間の勝手な都合で、多くの動物が殺されました。 動物園にたくさんの動物がいることは平和であることの証です。動物園は平和の 象徴であり、そして動物園のシンボルは今も昔も「ぞう」です。 太平洋戦争の厳しい状況の中でその実話をもとに戦争からぞうを守りぬいた人々の 優しさと勇気ある行動、そして戦争で夢も希望もなくしたこどもたちの、「ぞうをみたい」 「ぞうにあいたい」というささやかな願いをかなえるため、「平和」の象徴として 「ぞうれっしゃ」を走らせるまでを描いた原作「ぞうれっしゃがやってきた」は、 小学校教師の小出隆司氏が、1976年自費出版しました。生きていたぞうの話は、 こどもたちに大きな感動を呼び、1983年岩崎書店より刊行されました。 そしてこの絵本をもとに1985年〜1986年にかけて「愛知子どもの幸せと平和を願う 合唱団と清水則雄さん、藤村記一郎さんらがこの合唱構成曲「ぞうれっしゃがやってきた」 を作詞作曲され、ひとりでも多くのこどもたちがこのうたを通じて、こうした戦争という 歴史的な事実が語り継がれ、そして、「平和」の喜びを、「平和」への思いを全国のこども たちに伝え広がって行くことを心から願い、全国各地でコンサートが開かれたのです。 |
![]() 「ぞうれっしゃが走って50周年」記念モニュメント(東山動物園) |
★あらすじ★
第二次世界大戦の頃のお話です。
サーカスから名古屋の東山動物園にやって来た4頭のぞう、アドン・ エルド ・ マカニー ・ キーコ は、
子どもたちの人気者。
しかし、戦争が激しくなり、日本各地が爆撃され始めると、各地の動物園では爆撃でオリが壊され、
猛獣が逃げ出しては危険だと、軍隊の命令で動物たちが次々と殺されていきました。
そんな中で、東山動物園では、北王園長さんを先頭に、ぞうたちを必死に守り抜いたのです。
そして、戦争が終わった後、生き延びた2頭のぞう、マカニーとエルドを見たい、という子どもたちの
夢を乗せた特別仕立ての 「 ぞうれっしゃ 」が、全国各地から名古屋へと向かって走ったのです。
物語が合唱曲全11曲として構成され展開していきます。